4.山本先生の講義
6月から8月にかけて元東近江市史編纂室長の山本一博先生のご登壇
テーマは『織田信長と近江の武将』、織田信長の近江侵攻前後の近江に関わる武将について解説していただきます。
また、その縁の地となる城跡を訪問し、近江に関わる戦国の歴史をより身近に感じることを狙いとしています。
最終回の8月8日は、それぞれが学習した近江に関わる武将について発表することになっています。
しっかりと近江の戦国武将を学び、地域文化の一端を理解したいと思います。
校外学習など、撮影した写真の多くは以下のリンク先に貼り付けています。
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開催日 | テーマ | 講義の内容 | 場所 |
2023年 6月6日 |
信長侵攻前の 近江(午前) |
<今回の学習範囲> 永禄11年(1568)信長の近江侵攻から天正11年(1582)本能寺の変まで織田信長という嵐が 近江を駆け抜けました。この間、近江の武将たちがどのような行動をとったか、を学習します。 織田信長の家臣となる武将、織田信長に最後まで抵抗する武将、それぞれの足跡を辿ります。 また、先生からは講義の中で紹介する出来事、武将の行動を参考にして自分なりに学習調査した事項 を最後の発表会で披露したらどうかとの提案もありました。 それでは講義内容の概略について以下に振り返ります。 ~信長侵攻前の近江~ 宇多源氏の佐々木氏(近江八幡の佐々木に居住)と |
草津キャンパス |
用意周到 近江侵攻 (午後) |
信長に関する研究は、「信長公記(しんちょうこうき)」が基本資料になっているとのこと 「信長公記」は家臣太田牛一の著作であり、足利義輝を将軍にするため上洛を始めたところ (永禄11年、1568)から、本能寺の変で殺されるまで(天正10年、1582)の記録を慶長 年間(1596~1615)で完成させている。 ~用意周到、近江侵攻~ 足利義昭を上洛させ、征夷大将軍に就けるため 永禄9年8月にも幻の上洛計画はあった。六角が三好三人衆と通じており、近江の不穏が払拭 |
同上 | |
2023年 6月20日 |
危機一髪 千種越え (午前) |
~危機一髪、千草越え~ 永禄13年(1570)4月信長は幕府軍として朝倉氏を攻め (金ヶ崎の退き口(のきぐち)) 京から岐阜へ帰還するため、兵を配置、六角氏と交渉したが決裂、 信長は、元亀元年(1570)5月千種越えで岐阜への帰還途上 善住坊は、天正9年(1573年)9月高島へ潜伏していたのを捕縛され
元亀争乱「元亀元年(1570年)〜天正元年(1573年)の間」
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愛東 コミュニティセンター |
城跡訪問 (午後) |
PMからは校外学習 愛東コミュニティセンターから車で5分程度の距離(妹と書いてイモトと読む)にある鯰江城と井元城へ
「井元城」
地誌、地元伝承がなく一説には信長が鯰江城攻略した際の付城?
・コミュセンへ全員無事に帰還
山本先生、事務局の方、放浪癖もあるシニアの監視1日お疲れ様でした
次は7月11日東近江市埋蔵文化財センターで |
鯰江城跡 井元城跡 |
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2023年 7月11日 |
有言実行 比叡山焼討 (午前) |
7月11日(火)東近江市埋蔵文化財センター 図書館、アリーナ(体育館)併設施設 駅から徒歩15分暑かったぁ〜 講師 いつもの山本 一博先生 午前 ・埋蔵文化財センター見学 重要なモノ以外は空調無しでっす(暑っ) ・「織田信長と近江の武将〜有言実行、比叡山焼き討ち」 ○滋賀の陣 ○建部一揆 ○伊庭の河原崎助右衛門 ○志村城攻略、小川氏降伏 ○比叡山焼き討ち ○元亀4年夏 朝倉氏滅亡 ○天正元年夏 浅井氏滅亡 ○天正元年9月鯰江城落城 六角没落
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東近江市 埋蔵文化財 センター |
志村城跡、 伊庭周辺 訪問 (午後) |
午後 ・志村城址・河原崎助右衛門顕彰碑 見学 ○志村城 670人討ち取る(見せしめ) 堀と考えられる「さかさ川」は西から東へ流れる 志村城の状況をみて小川城降伏 ○伊庭は人質を差し出し恭順 人質の河原崎助右衛門は「領民の叛意なき旨と水源の確保を直訴し切腹」信長がその願いを <志村城跡> <伊庭周辺> ○伊庭は人質を差し出し恭順 人質の河原崎助右衛門は「領民の叛意なき旨と水源の確保を直訴し切腹」 |
志村城跡 伊庭周辺 |
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2023年 7月25日 |
近江武将の 世渡り(午前) |
<現地までの経路(近江鉄道利用)> ○近江八幡からバス1時間710円の小旅行 ・近江八幡南口から乗った人、案内どおり(ほりお眼科前)で乗った人総勢5人 ・途中に「ガリ版伝承館」もあります ・日野駅で休憩(時間調整)もあり大はしゃぎ(運転手さん乗客の皆さんごめんなさい) <近江日野商人ふるさと館「旧中山正吉邸」> この日は休館日でしたが、レイカディア大学訪問ということで特別に開館していただいたようです。 <講義の様子(近江武将の世渡り)> 山本先生最後の講義です。 〇午前 ◇佐々木六角氏のその後 ・天正元年(1573年)9月鯰江城陥落、佐々木六角氏甲賀へ没落 ・天正3年〜10年 武田氏と関係深化、武田氏滅亡後、承禎は秀吉に仕える。 ・承禎の長子善治(義堯)は、足利義昭に従い備後鞆へ移動、天正15年末?帰京し豊臣家に従う ・慶長3年(1598年)3月14日 佐々木承禎死去78歳 慶長17年(1612年)10月22日 佐々木義堯死去 68歳 酬恩庵(一休寺)京田辺市に両名の墓 家系は明治まで存続 イ 同承禎の次子 賢永は、関ケ原後家康に旗本2000石として仕える ・天和元年(1681年)相続なくお家断絶 ◇京極氏のその後(京極高次) ・小谷城で生まれ人質として信長のもとで成長し、信長の近習近江衆の一員として仕える ・本能寺の変後、京極家再興を目指し長浜城を攻撃、越前へ脱出 女性の縁者のお陰?で大出世 関ヶ原では大津城主として籠城 ・若狭小浜藩8万5千石 万治元年(1658年)讃岐丸亀6万石へ天封、明治まで存続 ◇浅井氏のその後 天正元年(1573)9月1日 浅井長政切腹、嫡男万福丸、貼り付け→浅井家滅亡 ・浅井氏の三姉妹 茶々 豊臣秀吉側室 初 京極高次正室 江 ・天正12年(1584)佐治一成に12歳で嫁ぐ ・文禄元年(1592)豊臣秀勝に嫁ぎ完子さだこを産む ・文禄4年(1595)徳川秀忠に嫁ぐ 五女和子まさこ後水尾天皇に嫁ぐ 豊臣秀勝との一子完子は茶々に養育された後、関白九条幸家に嫁ぎ、九条家の家系が
<食事準備までの時間を利用し日野商人について説明> 日野商人が最も楽しみしていた5月3日の日野祭りで振る舞われたそうです。 「鯛そうめん」に手作りのごま豆腐、白和え、季節のごはん、汁物、香の物の合計8品の御前です。 |
近江日野商人 ふるさと館 「旧中山正吉邸」 |
中野城 法雲寺 信楽院 訪問 |
<午後> ◇中野城・法雲寺・信楽院(しんぎょういん) ・中野城 蒲生家三代の城から徒歩で法雲寺へ ・信楽院へ車で移動の際、クラス分裂の危機 「しがらきいん」ですか、と電話すると切られるそうです(事務局アルアル) 暑い中で自販機大活躍;若草清水で水浴びしたかったわ ・クラス合流後、蒲生氏郷銅像(おうちゃんのパパ関係銅像) 「思いきや 人のゆくえぞ 定めなき わがふるさとを よそに見んとは」 〇法雲寺 〇信楽院 集合場所の思い違いで2ヵ所の駐車場でそれぞれを待っていました。少し時間のロス <番外編> ①日野の街並み ②蒲生氏郷公 銅像(公園) この銅像は会津若松から九州へ出兵する途中、武佐宿で宿泊した際の氏郷と言われています。 強い望郷の念をこの立ち姿から伺うことができます。 |
中野城 法雲寺 信楽院 |
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2023年 8月8日 |
発表会 | 山本先生の講義は7月25日で終了し、本日はいよいよ各自で調べたことを発表する日 発表が苦手な方、発表時間が長い方、綿密な資料を作成された方、いろんな発表があり、それは それで良かったと思っています。 この日は4年ぶりに開催されたびわ湖花火大会と重複したため、帰宅時間を早めに取れるよう事前の 調整を行った上での開催となりました。 発表会の詳細写真は山本先生のページに掲載しています。 ここでは、その概要をお伝えしたいと思います。 <発表会準備> <発表時の様子> 発表者だけでなく、聴講者も結構、真剣に聞いています。 この資料はすごい。A3両面2ページにわたり、近江源氏佐々木氏の歴史がびっしりと記載されています。 この資料で佐々木氏の全体像が把握できる内容となっています。作者はベルさんです。 <先生からのご講評とお礼> 発表会の最後、山本先生からご講評をいただきました。 後日、そのご講評をまとめた資料もいただいています。 私たちの感謝の意を示す色紙とお礼を申し上げ、発表会は無事、終了しました。 月並みな言葉となりますが、山本先生ありがとうございました。 授業はとっても楽しかったです。 |
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