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地域文化学科44期へようこそ


【山本講座のページ】



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4.山本先生の講義

 6月から8月にかけて元東近江市史編纂室長の
山本一博先生のご登壇
 テーマは
『織田信長と近江の武将』、織田信長の近江侵攻前後の近江に関わる武将について解説していただきます。
また、その縁の地となる城跡を訪問し、近江に関わる戦国の歴史をより身近に感じることを狙いとしています。
 最終回の8月8日は、それぞれが学習した近江に関わる武将について発表することになっています。

 しっかりと近江の戦国武将を学び、地域文化の一端を理解したいと思います。
 
 校外学習など、撮影した写真の多くは以下のリンク先に貼り付けています。
  
  ⇒ 山本先生校外学習写真集

   開催日      テーマ                                講義の内容                              場所    
2023年
6月6日
 
信長侵攻前の
近江(午前)
<今回の学習範囲>
 永禄11年(1568)信長の近江侵攻から天正11年(1582)本能寺の変まで織田信長という嵐が
近江を駆け抜けました。この間、近江の武将たちがどのような行動をとったか、を学習します。
 織田信長の家臣となる武将、織田信長に最後まで抵抗する武将、それぞれの足跡を辿ります。

 また、先生からは講義の中で紹介する出来事、武将の行動を参考にして自分なりに学習調査した事項
を最後の発表会で披露したらどうかとの提案もありました。


 それでは講義内容の概略について以下に振り返ります。

~信長侵攻前の近江~

 宇多源氏の佐々木氏(近江八幡の佐々木に居住)佐々貴氏(本佐々木氏)との
保元・平治・治承・寿永・承久の様々な乱を経て佐々木氏が四家(大原、高島、六角、京極)
に分裂、
そこに六角氏と京極氏(京都の宿所が六角通と京極通)がいたのや
紆余曲折はあったにして、近江は長いこと佐々木さんが主でいたのね
京極さんの家臣から浅井さんも台頭してきたのや


 
草津キャンパス
用意周到
近江侵攻
(午後)
 信長に関する研究は、「信長公記(しんちょうこうき)」が基本資料になっているとのこと
 「信長公記」は家臣太田牛一の著作であり、足利義輝を将軍にするため上洛を始めたところ
(永禄11年、1568)から、本能寺の変で殺されるまで(天正10年、1582)の記録を慶長
年間(1596~1615)で完成させている。

~用意周到、近江侵攻~

 足利義昭を上洛させ、征夷大将軍に就けるため信長は、上洛用通路を確保する必要から美濃を平定し、
また、徳川とも同盟を結び、東方面からの憂い(今川、武田、上杉)を払拭させた。
 一方、通り道となる近江では、浅井に同意を得られたが、六角には自ら佐和山城に出向き、協力を
要請するものの、同意を得ることができず。信長は、無欠通過を諦め、実力突破という方法を選択する。
 以前から信長は六角家臣に対して切り崩し(自分への寝返り)を行っていた。

 永禄11年(1568年)9月7日、岐阜を出発し、11日には箕作城を陥落
 12日、佐々木承禎ら逃亡し、翌13日に観音寺城落城
 14日に義昭へ迎いの使者を送った
 10月14日、義昭・信長の上洛、18日義昭が征夷大将軍に就任 

 永禄9年8月にも幻の上洛計画はあった。六角が三好三人衆と通じており、近江の不穏が払拭
できなかったため断念された模様


同上
2023年
6月20日
危機一髪
千種越え
(午前)

~危機一髪、千草越え~

永禄13年(1570)4月信長は幕府軍として朝倉氏を攻め
越前金ヶ崎城で義弟 浅井長政の謀反を知り朽木を経て京へ退却

(金ヶ崎の退き口(のきぐち))

京から岐阜へ帰還するため、兵を配置、六角氏と交渉したが決裂、
浅井氏は八風街道沿いの鯰江城(+井元城?)に兵を入れ 信長の帰還を千種越えに誘い込んだ?

信長は、元亀元年(1570)5月千種越えで岐阜への帰還途上
善住坊に狙撃されたが難を逃れ、21日、無事岐阜へ到着した

善住坊は、天正9年(1573年)9月高島へ潜伏していたのを捕縛され
頸を鋸でひかれて処刑されたって(こわっ)

元亀争乱「元亀元年(1570年)〜天正元年(1573年)の間」
信長と反対勢力の攻防で浅井氏滅亡、六角氏没落


 



 

 

お昼ご飯 地元食材を使った地域おこしのお弁当1200円美味しくいただきました
ご馳走様でした


愛東
コミュニティセンター
城跡訪問
(午後)
PMからは校外学習

愛東コミュニティセンターから車で5分程度の距離(妹と書いてイモトと読む)にある鯰江城と井元城へ
・山本先生のスカイラインを先頭に7台で分乗して 鯰江町自治会館前の専修院さんの駐車場へ

 「鯰江城」
愛知川の河岸段丘を利用、自然の要害として築城された森備前守の城を六角氏の築城技術で補強
あちこちに「えっ、これ?」という土塁跡、暗渠跡を見学

専修院さんで大きな位牌と「殿さんの墓まいり」 鯰江氏の重臣 森備前守やそうです

 
 

 

 

 竹藪の中にも土塁があり、それをバックにして集合写真
(肝心の土塁が写っていませんでした。ゴメンナサイ)



・愛知川広場へ車で移動、河岸段丘と鯰江城の大きさを実感

 

井元城へ車で移動

「井元城」

地誌、地元伝承がなく一説には信長が鯰江城攻略した際の付城?

竹藪をトコトコ歩き、同じく段丘崖を利用した井元城へ本丸?の土塁と連なった二段に重ねた角馬出し
(かくうまだし)
全国的にも数少ない遺構やそうです

 

 

・コミュセンへ全員無事に帰還

山本先生、事務局の方、放浪癖もあるシニアの監視1日お疲れ様でした
全員参加で皆さん
1日お疲れ様でした

次は7月11日東近江市埋蔵文化財センターで「魚定」さんの1500円お弁当です

鯰江城跡



井元城跡
2023年
7月11日
 
有言実行
比叡山焼討
(午前)

7月11日(火)東近江市埋蔵文化財センター

  図書館、アリーナ(体育館)併設施設 駅から徒歩15分暑かったぁ〜

  講師 いつもの山本 一博先生

午前

・埋蔵文化財センター見学 重要なモノ以外は空調無しでっす(暑っ)

・「織田信長と近江の武将〜有言実行、比叡山焼き討ち」

滋賀の陣

建部一揆

伊庭の河原崎助右衛門

志村城攻略、小川氏降伏

比叡山焼き討ち

元亀4年夏 朝倉氏滅亡

天正元年夏 浅井氏滅亡

天正元年9月鯰江城落城 六角没落

 <東近江市埋蔵文化財センター>


<センター内見学(埋蔵品の見学)>
 

 

<講義の様子(比叡山の焼き討ち)>
 

 

 ・地域食材を使った《魚定》さんの1500円お弁当、ご馳走様でした。
  
おかずの種類が多いお弁当でした。


東近江市
埋蔵文化財
センター
志村城跡、
伊庭周辺
訪問
(午後)

午後

・志村城址・河原崎助右衛門顕彰碑 見学

志村城 670人討ち取る(見せしめ)

堀と考えられる「さかさ川」は西から東へ流れる

 志村城の状況をみて小川城降伏

伊庭は人質を差し出し恭順

人質の河原崎助右衛門は「領民の叛意なき旨と水源の確保を直訴し切腹」信長がその願いを
聞き届け、伊庭川が開発された


<志村城跡>
 

 

<伊庭周辺>

伊庭は人質を差し出し恭順

人質の河原崎助右衛門は「領民の叛意なき旨と水源の確保を直訴し切腹」
信長がその願いを聞き届け、伊庭川が開発された


 

 

 


志村城跡
伊庭周辺
2023年
7月25日
 
近江武将の
世渡り(午前)
<現地までの経路(近江鉄道利用)>

近江八幡からバス1時間710円の小旅行

 ・近江八幡南口から乗った人、案内どおり(ほりお眼科前)で乗った人総勢5人

 ・途中に「ガリ版伝承館」もあります

 ・日野駅で休憩(時間調整)もあり大はしゃぎ(運転手さん乗客の皆さんごめんなさい)

   

<近江日野商人ふるさと館「旧中山正吉邸」>
この日は休館日でしたが、レイカディア大学訪問ということで特別に開館していただいたようです。

 

 

 

<講義の様子(近江武将の世渡り)>
 山本先生最後の講義です。

〇午前

◇佐々木六角氏のその後

天正元年(1573年)9月鯰江城陥落、佐々木六角氏甲賀へ没落

天正3年〜10年 武田氏と関係深化、武田氏滅亡後、承禎は秀吉に仕える。

承禎の長子善治(義堯)は、足利義昭に従い備後鞆へ移動、天正15年末?帰京し豊臣家に従う

慶長3年(1598年)3月14日 佐々木承禎死去78歳

  慶長17年(1612年)10月22日 佐々木義堯死去 68歳

  酬恩庵(一休寺)京田辺市に両名の墓

  ア 佐々木承禎の孫定治は、徳川家康の斡旋で佐々木六角宗本家を継承し、加賀藩氏に支え、
    家系は明治まで存続

  イ 同承禎の次子 賢永は、関ケ原後家康に旗本2000石として仕える

・天和元年(1681年)相続なくお家断絶


◇京極氏のその後京極高次)

 ・小谷城で生まれ人質として信長のもとで成長し、信長の近習近江衆の一員として仕える

 ・本能寺の変後、京極家再興を目指し長浜城を攻撃、越前へ脱出

  女性の縁者のお陰?で大出世

  関ヶ原では大津城主として籠城

 ・若狭小浜藩8万5千石

  万治元年(1658年)讃岐丸亀6万石へ天封、明治まで存続


 ◇浅井氏のその後

 天正元年(1573)9月1日 浅井長政切腹、嫡男万福丸、貼り付け浅井家滅亡

 ・浅井氏の三姉妹

    茶々 豊臣秀吉側室

    初  京極高次正室

    江   ・天正12年(1584)佐治一成に12歳で嫁ぐ

     ・文禄元年(1592)豊臣秀勝に嫁ぎ完子さだこを産む

        ・文禄4年(1595)徳川秀忠に嫁ぐ

    五女和子まさこ後水尾天皇に嫁ぐ

    豊臣秀勝との一子完子は茶々に養育された後、関白九条幸家に嫁ぎ九条家の家系が
    大正天皇の皇后貞明皇后につながり現在の天皇家に浅井家の血が流れている

   ・佐々木六角氏の重臣 後藤高治
   ・浅井家重臣 磯野員昌
   ・佐々木六角氏重臣 蒲生氏

 

 

<食事準備までの時間を利用し日野商人について説明>
 多くの日野商人は薬の行商から財を成し、各地で醸造に従事し、日野の千両店と言われる小規模店舗を
数多く作った。同郷での組合を作り、旅籠(行商拠点)、馬借(物流)を共同利用したそうです。

 

<お昼ごはん>

◇鯛そうめん御前

 日野商人が最も楽しみしていた5月3日の日野祭りで振る舞われたそうです。
 日野とお料理が好きなおばちゃん達が心を込めて手づくりです(日野の伝統料理を継承する会)

 「鯛そうめん」に手作りのごま豆腐、白和え、季節のごはん、汁物、香の物の合計8品の御前です。



 

 


近江日野商人
ふるさと館
「旧中山正吉邸」
中野城
法雲寺
信楽院

訪問
午後>
◇中野城・法雲寺・信楽院(しんぎょういん)

 ・中野城 蒲生家三代の城から徒歩で法雲寺へ

 ・信楽院へ車で移動の際、クラス分裂の危機

  「しがらきいん」ですか、と電話すると切られるそうです(事務局アルアル)

  暑い中で自販機大活躍;若草清水で水浴びしたかったわ

 ・クラス合流後、蒲生氏郷銅像(おうちゃんのパパ関係銅像)

  「思いきや 人のゆくえぞ 定めなき わがふるさとを よそに見んとは」
  分禄の役出陣途上に武佐宿から詠んだ歌

〇中野城(蒲生定秀、賢秀、氏郷の三代の城)


 

 

〇法雲寺

 

 



〇信楽院

集合場所の思い違いで2ヵ所の駐車場でそれぞれを待っていました。少し時間のロス

 

 


<番外編> 
①日野の街並み




 

 

②蒲生氏郷公 銅像(公園)

  

 この銅像は会津若松から九州へ出兵する途中、武佐宿で宿泊した際の氏郷と言われています。
 強い望郷の念をこの立ち姿から伺うことができます。


中野城
法雲寺
信楽院
2023年
8月8日
 
発表会 山本先生の講義は7月25日で終了し、本日はいよいよ各自で調べたことを発表する日
発表が苦手な方、発表時間が長い方、綿密な資料を作成された方、いろんな発表があり、それは
それで良かったと思っています。
この日は4年ぶりに開催されたびわ湖花火大会と重複したため、帰宅時間を早めに取れるよう事前の
調整を行った上での開催となりました。


発表会の詳細写真は山本先生のページに掲載しています。
ここでは、その概要をお伝えしたいと思います。

<発表会準備>
 

<発表時の様子>
 発表者だけでなく、聴講者も結構、真剣に聞いています。


 

 

 

 


この資料はすごい。A3両面2ページにわたり、近江源氏佐々木氏の歴史がびっしりと記載されています。
この資料で佐々木氏の全体像が把握できる内容となっています。作者はベルさんです。


<先生からのご講評とお礼>
 発表会の最後、山本先生からご講評をいただきました。
 後日、そのご講評をまとめた資料もいただいています。

 私たちの感謝の意を示す色紙とお礼を申し上げ、発表会は無事、終了しました。


  



 月並みな言葉となりますが、山本先生ありがとうございました。
 授業はとっても楽しかったです。

 
     


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